1978年2月18日、東京で「嫌煙権確立をめざす人びとの会」が発足集会を開きました。
当時の新幹線こだま号16両のうち、禁煙車はわずか1両。公共空間でたばこの煙から逃れる選択肢は、ほとんど存在していませんでした。「吸わない自由」を掲げること自体が、どこか場違いに見られていた時代です。
当初は冷ややかな反応も見られましたが、やがて受動喫煙問題を社会課題として可視化し、制度や企業の対応を変えるきっかけの一つになります。
会の運動の優れていた点、対立が生じている場面で広報はどのような視点を持つべきかについてまとめました。
嫌煙権とは?
「人びとの会」結成を主導したのは、受動喫煙問題に取り組んだ医師や法律家、研究者らです。「嫌煙権」の名称は、コピーライターの中田みどり氏が「日照権」にヒントを得てつけたそうです。背景には、受動喫煙による健康被害への懸念がありました。世界ではすでに禁煙運動が広がりつつあり、公共空間の分煙や全面禁煙が議論され始めていましたが、日本では個人の嗜好として強く擁護されていました。
参考:渡辺文学(2021)「嫌煙権運動43年を振り返って 環境問題としてのタバコを考える」『日本禁煙学会雑誌』第16巻第4号、pp.64-66.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jstc/16/4/16_64/_pdf/-char/ja
そもそもたばこは海外から入ってきました。戦国時代、鉄砲やキリスト教などが入ってきたのと同じ頃にもたらされたとする説もありますが証拠はなく、はっきり文献に登場するのは秀吉の天下統一(1590年)以降、慶長年間です。
参考:JT「たばこの歴史・文化 日本の歴史【江戸期】」
https://www.jti.co.jp/tobacco/knowledge/society/history/japan/edo/index.html
日本では職場でも喫茶店でも公共交通機関でも喫煙は自由で、高度成長期後も電車の車両には灰皿が備え付けられていたり、飛行機に喫煙席が設けられていたりしました。

嫌煙権運動は「全ての列車の半数以上を禁煙車に」を目標に掲げました。新幹線のこだま号16両のうち禁煙車は1両しかなかったためで、国鉄(当時)に増設を要請しました。
しかし、当時「吸わない自由」を主張する声は少数派で「嫌煙」という言葉自体が強い違和感をもって受け止められ、会の名称すら賛否を呼びました。国鉄の回答は「たばこを吸うお客様のことを考えて」「コンピュータがうまく作動しなくなってしまう」などだったそうです(渡辺 2021)。
発足集会では、「たばこを吸う権利」だけでなく「吸わない権利」も等しく守られるべきだと訴えました。喫煙者と非喫煙者の対立をあおるのではなく、健康と快適な環境を守るという観点から社会に問題提起した点が特徴です。
以下で発足集会の様子を映像で見られます。
1980年4月、中田みどり氏らが原告となり、嫌煙権をめぐって国と国鉄、専売公社(現JT)を相手に東京地裁に提訴。原告側の訴えは退けられましたが、列車の禁煙化が30%になったため控訴せず、1987年に判決が確定しました。
参考:田村良彦「嫌煙権運動35周年…全面禁煙 先進国の潮流」『ヨミドクター』2013年2月26日付
https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20130226-OYTEW51888
その後、受動喫煙による健康被害は数多くの学術的研究により解明されてきました。公共施設や交通機関での分煙が徐々に進み、2003年には健康増進法が施行され、多くの施設で受動喫煙防止対策が努力義務とされました。 さらに2020年には改正健康増進法が全面施行され、学校や病院、行政機関、原則として多数の人が利用する飲食店やオフィスの屋内は、一定の喫煙専用室などを除いて原則禁煙になりました。 国際的にも、世界保健機関のたばこ規制枠組条約(FCTC)が発効し、受動喫煙防止と屋内禁煙の整備は多くの国で重要な政策課題です。
嫌煙権運動に学ぶ、広報が社会課題を伝えるポイント
嫌煙権運動は、単なる喫煙マナーの問題ではありませんでした。少数派の声が社会制度を動かすまでのプロセスには、広報やコミュニケーションに通じる重要な示唆があります。
現代のビジネスや広報実務に引き寄せると、どのようなポイントが見えてくるでしょうか。
多数派の「当たり前」を疑う
嫌煙権運動が示したのは、多数派の慣習が必ずしも正義とはいえない事実です。当時、喫煙は社会の“当たり前”でした。しかし、不利益を受けている人もいたのです。
市場シェアが大きい顧客、声の大きいユーザー、社内の有力部署――。多数派の意見に隠れ、沈黙している顧客や従業員、離脱したユーザーの思いにこそ重要な示唆が潜んでいることがあります。
対立を再定義する
また、「吸う権利」対「吸わない権利」という対立構造を、単なる感情論にせず、公共空間の快適性や健康といった上位概念で再定義した点も重要です。
対立をあおるのではなく、議論の土俵を一段引き上げる。企業の危機対応やステークホルダーコミュニケーションにおいて、非常に重要な姿勢です。
権利の共存を設計する
多数派であることは、免罪符にはなりません。少数派の権利をどう守り、異なる立場をどう共存させるか設計する。どの立場でも納得できる枠組みを作るのは簡単ではありませんが、組織の信頼を守るために役立ちます。
対立が見受けられる時、広報実務で使えるテンプレ
対立が見受けられる場合、安全寄りに「何も発信しない」「触れない」のが良いときもあるでしょう。しかし、何かしら発信せざるを得ないケースもあります。感情的にどちらの味方か意思を表示する前に、議論の構造を考えるくせをつけてみましょう。
以下は少数派の権利や価値観に対立が生じている事象に関する発信の基本テンプレートです。
事実の確認と共有
まず確認できている事実を簡潔に示します。
例
・現在発生している事象
・影響範囲
・対応状況
事態や論調は刻々と変化するので、発信時点で確認できている事実を明確に区切ることが重要です。
立場の尊重を明示する
対立する双方の立場を否定しない姿勢を示します。
例
「当社は〇〇の価値を尊重するとともに、△△の懸念も重く受け止めています」
一方を敵に回さないことが重要です。
上位概念で再定義する
争点を、勝ち負けから共通目的へと引き上げます。
例
・安全
・健康
・持続可能性
・利用者体験の向上
何のための議論かを明確にすることで、感情的対立を構造的議論へ転換できます。
今後の検討・改善プロセスを示す
結論が出ていない場合でも、検討の枠組みを示します。
例
「外部有識者の意見を踏まえ、◯月までに方針を公表します」
「利用者の声を収集し、改善策を検討します」
沈黙していると「何もしていない」と思われてしまう可能性があります。プロセスを提示し、信頼をつなぎましょう。
なお、危機時の初動対応については、えひめ丸事故のケースでも整理しています。
正解を出すことよりも対立を“燃料”にしない設計が重要です。
SNS用短文例
「現在〇〇に関するご意見を多数いただいています。事実確認を進めるとともに、皆さまの声を踏まえ検討を行っています。進捗は改めてお知らせします。」
まとめ
かつて少数派だった「吸わない権利」は、いまや社会の共通認識になりつつあります。 公共空間のあり方を問い直し、法制度や企業の対応を変える契機の一つとなりました。
小さな声が制度を動かす可能性を見据えたコミュニケーション設計が、組織の成熟度を左右します。声の大きさではなく、影響の質を見ること。対立を深めるのではなく、議論の構造を見極めるよう意識しましょう。



